希望のメッセージ・礼拝宣教要旨
神がいるならなぜ戦争が無くならないのか
「神がいるなら、なぜ戦争があるのか?」という問いは、神の存在と人間の苦しみの関係を問うものです。この問題を聖書の視点から考えると、戦争は神のご意志によるものではなく、人間の罪の結果であると説明できます。
1. 戦争の原因は人間の罪にある
聖書は、戦争や争いが人間の内側から生じることを明確にしています。
ヤコブの手紙 4:1-2(新約聖書)
「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから来るのでしょうか。それは、あなたがたの中で戦う欲望から来るのではありませんか。あなたがたは欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争い戦います。」
ここでは、戦争や争いが人間の「欲望」から生じることが示されています。すなわち、富・権力・名声・支配欲が戦争を引き起こしているのであって、神がそれを望んでおられるわけではないのです。
2. 神は戦争を望んではおられない
聖書の中には、神が平和を求めておられることを示す記述が多くあります。
イザヤ書 2:4(旧約聖書)
「主(神)は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らはその剣を打ち直して鋤(すき)とし、その槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」
この箇所では、神が望んでおられることは戦争ではなく、むしろ平和であることがわかります。しかし、人間は神の意志に反して争いを続けているのです。
3. なぜ神は戦争を止めないのか?
ここで疑問となるのは、「では、なぜ神は戦争を止めないのか?」ということです。これは、神が人間に「自由意志」を与えたことと関係しています。
申命記 30:19(旧約聖書)
「私は、今日、天と地をあなたがたに対する証人として呼び出す。私はあなたの前に、命と死、祝福と呪いを置いた。あなたは命を選びなさい。」
神は人間に善と悪を選ぶ自由をお与えになりました。もし神が全てを強制的に止めるなら、人間の「自由意志」も失われることになります。神は戦争を望んではおられませんが、人間が罪を選んでしまった結果、戦争が起きているのです。
4. では、神は戦争をどう解決されるのか?
聖書は、最終的には神が戦争と罪を完全に終わらせることを約束しています。
黙示録 21:4(新約聖書)
「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい去ってくださる。もはや死も悲しみも叫びも痛みもない。なぜなら、以前のものが過ぎ去ったからである。」
最終的に、神の国が来るときには戦争や悲しみがなくなると預言されています。現在の戦争は、まだ人間が罪の世界に生きているために続いているのです。
日本と世界の価値観の違い
日本では、一般的に「神」という存在が自然や宇宙の調和を象徴するものとして捉えられることが多く、キリスト教のように人格的な神が善悪を判断されるという考えはあまり馴染みがありません。そのため、「神がいるなら、なぜ戦争があるのか?」という問いに対し、「神が全能なら戦争を止められるはずだ」という疑問が生じやすいのです。
一方、キリスト教では「神は愛であり、人間に自由意志を与えている」という考え方が根底にあります。戦争は神のせいではなく、人間が罪を選んでしまった結果であると考えます。であるならば、戦争を始めるのもやめるのも人間の選択、責任であるとは言えないでしょうか。
キリストは十字架で私たちのすべての罪を背負われ死なれ、三日目に勝利して復活されました。そして今も生きて信じる人の内におられ、私たちを助けてくださいます。十字架で息を引き取る前、キリストは自分を殺すもののためにこう祈られました。
ルカ23:34(現代訳聖書)
「お父様、どうかこの人々を赦してあげてください。この人々は自分たちが何をしているのか、何もわかっていません。」
神は、無知ゆえに訳もわからず敵対している人間に対しても滅びではなく、赦されました。本来であるならば、私たちが受くべき罪の刑罰をキリストに負わせることによって、罪から私たちを救い出すという方法をとってくださいました。ここに神は、私たちが滅びを選ぶことではなく愛しておられることを明らかにされたのです。
今度は私たちの側から神に対して、他の人に対してなすべきことがあるのではないでしょうか。
質問
あなたは戦争の当事者ではないかもしれません。しかし、私たちすべての人間は等しく罪を持っています。身近なところに争いがあるなら、それは罪を、戦いを選んでいるのです。神はあなたに何を求めておられるのでしょうか。今日の聖書引用箇所から答えを見つけてください。それが果たして自分だけの力でできるかどうか、考えてみてください。
日曜学校のメッセージから 「信仰ってなんのためにあるの?」From the Sunday School Message: "What is Faith for?"
科学ってね、まず「これが正しいかな?」って思って、それを何度も確かめるんだよ。みんなもね、「こうかな?」って信じて頑張ることが大事なんだ。それが「信仰」っていうものなんだよ。
例えば、友達と仲良くなるときも、信じる心が大切なんだ。友達と一緒に遊んでいると、お互いに信じて仲良くなるんだよね。大人もね、子どもたちを信じて見守ることで、みんなの成長を助けているんだよ。
みんなも失敗することがあるよね。でも、何かを信じ続けることで、諦めずに頑張ることができるんだ。信じることが、みんなの強さになるんだよ。
クリスチャンっていう人たちはね、神様を信じているんだ。神様がいるから、どんなに大変でも頑張れるんだよ。神様を信じることで、粘り強くなるんだ。
例えば、キリストっていう人がいるんだけど、その人が神様に守られて復活したって信じているんだ。その信じる心が、クリスチャンの強さの元なんだよ。
信じることって、とっても大事なんだ。みんなも、何かを信じて頑張ると、失敗しても諦めずに挑戦し続けられるんだよ。信じる心が、みんなをもっと強くしてくれるんだ。
Science means trying to see if ideas are true by testing them over and over again. Just like that, believing in something helps us keep trying hard. This belief is called "faith."
For example, when you make friends, it's important to trust them. Playing with friends helps us trust each other and become close. Grown-ups also believe in kids and watch them grow.
Sometimes we make mistakes, right? But when we keep believing in something, we can stay strong and not give up. Believing makes us strong.
Christians are people who believe in God. They know God is with them, so they can be brave even when things are tough. Their faith in God helps them be strong.
For example, there's a person named Jesus. Christians believe Jesus came back to life with God's help. This belief makes them strong.
Believing is very important. If we believe in something and try hard, we can keep going even if we fail sometimes. Faith makes us stronger.
不可能を可能にする愛 Love that Makes the Impossible Possible
2024年6月23日の宣教要旨は「不可能を可能にする愛」でした。
マタイ5章44節から、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることの大切さを学びました。詩篇143篇8-10節では、この教えの深い意味とプロセスが語られ、聖書の解釈に対するアプローチも示されました。
詩篇143:8では、朝ごとに主の慈しみを求めることの重要性が強調され、一日中神と共にあることの姿勢が述べられました。信仰の根本は、律法の遵守ではなく、神の慈しみと愛を受け入れることにあります。
143:9では、敵を愛し、迫害する者のためにどのように準備をするかが語られました。単なる言葉だけでなく、愛の実践としての準備が必要であり、それには主による助けと徹底的な神の愛の体験が欠かせません。
143:10では、主のみこころを行うための準備が語られ、聖霊によって導かれることの重要性が強調されました。この準備には訓練と祈りが欠かせず、自己の変容と共に主の平安を求めることが示されました。主に力をいただいて繰り返し訓練し、ととのえられていく必要があります。
The missionary theme for June 23, 2024 was "Love that Makes the Impossible Possible."
From Matthew 5:44, we learned about the importance of loving our enemies and praying for those who persecute us. Psalms 143:8-10 further delved into the profound meaning and process of this teaching, offering an approach to interpreting the Scriptures.
In Psalm 143:8, the significance of seeking the Lord's mercy each morning was emphasized, along with maintaining an attitude of being with God throughout the day. The foundation of faith lies not in mere compliance with the law, but in accepting God's mercy and love.
Verse 143:9 discussed preparing to love enemies and those who persecute us. It highlighted the necessity of preparation not only in words but also in practical acts of love, requiring the help of the Lord and a thorough experience of God's love.
Verse 143:10 focused on preparing to do the Lord's will and underscored the importance of being guided by the Holy Spirit. This preparation involves essential elements such as training and prayer, seeking the Lord's peace alongside personal transformation. It stresses the need to repeatedly seek strength from the Lord, engaging in training and refinement.
たとえ 病に倒れても~くも膜下出血闘病~
主の聖名を賛美します。
主の憐れみと多くの方々のとりなしの祈りにより命が守られた事を心から感謝します。
人生には理解できず受け入れることが難しい問題が起こります。この度の病を通して、私は、命は主の御手、主権の中にあり、主が自分を愛してくださる方であると信じることがどれ程大切で幸福であるかを深く思わされています。
私はくも膜下出血と水頭症の為、六 週間で三度手術を受けました。死んでもおかしくない厳しい現実にぶつかりました。
1度目は2021年1月18日にコイル塞栓術(破裂して出血した動脈瘤にコイルで詰物を出血を止める手術)でした。
2度目は1月19日に開頭クリッピング術(未破裂の動脈瘤に対して開頭し瘤の根元をクリップで挟み血流を止める手術)でした。3度目は2月19日に水頭症シャント術(くも膜下出血の後遺症によって発症した水頭症の為に、脳室にカテーテルを挿入し髄液を他の体腔に流して脳圧をコントロールする為の手術)です。これまで生きてきた中で言葉に言い表すことが出来ないような辛く悲しい、非常に大きな試練でした。
しかし神様は素晴らしい医師と出会わせてくださり、その方の判断によって手術治療が行われ私の命を守って下さいました。更に御言葉(詩篇121篇)によって悲しく孤独感に落ち込んだ私を慰めてくださいました。また、多くの方の祈りと助けに支えられました。
私の恩師の朴エステル師がいつも話していた言葉を思い出します。「神のなさることに意味のない事はない」と。全ては主の御手の中にあり、主が共にいて下さることを信じて生きる幸いがあります。そしてイエス様が今度は王様としてもう一度地上に戻ってこられる時、天地を悲しみのない喜び溢れる世界に変えられて、朽ちない体に変えられる希望があります。永遠にイエス様がおられる幸福と憩いに入れて頂ける希望があるので苦しくても悲しくても失望に終わりません。ただただ主の憐みのゆえに生かされていること、皆様のお祈りを心から感謝します。栄光在主